とうじ魔とうじの一番長い日        

2004年10月13日、その日はいつもより慌ただしく始まりました。

朝起きると、下の子供(麦子・3歳)の具合が悪く、小児科に連れて行ったりとバタバタしておりました。

そんな中、『ロック画報』編集部の僕の担当者から電話がかかってきました。それは山平和彦が交通事故で亡くなったという知らせでした。僕はあまりに突然の事で、驚き動転いたしました。僕の著書をお読みの方でしたら、僕と山平の関係についてはご存知かと思います。僕は初めての自伝的著書『とうじ魔とうじ養成ギブス』(洋泉社刊)の中でも、多くのページを山平との事に費やしています。山平和彦無くしてとうじ魔とうじは有り得ない、と言っても決して過言ではありません。

山平訃報の電話を置くと程なくして、また電話が鳴りました。僕はてっきり、また山平に関する電話ではないかと思い受話器を取りました。ところが電話は、近所に住む実家の母からでした。今朝、父が実家で倒れ、救急車で病院に運ばれた。今、手術中なので来てもらえないか、との事でした。僕の頭の中はパニックになりました。

昭和医大のICUに駆けつけると、父はまだ手術中でした。急性大動脈解離で、極めて重篤である事を聞かされました。手術は深夜にまで及びましたが、結局、父は意識を取り戻す事なく翌14日に息をひきとりました。

実家で腹がへった時、僕はよく「何か食べる物ない?」と言いながら冷蔵庫を開けます。すると大抵、親父の歯形のついた食べかけの塩鮭があります。そんな時僕は「なんだ、こんなのしかないのか…」と、仕方なくその鮭を食べます。父が亡くなった後、病院から実家に帰り冷蔵庫を開けると、父の歯形がついた食べかけの鮭がありました。この日ばかりは父の食べ残しが、「こんなの」ではなく、とても貴重な「ご馳走」に思えました。


という訳で僕は、僕の人生における重要な人物を二人いっぺんに失ってしまいました。この間に様々な方から、山平死亡に関する問い合わせを頂きました。当サイトにも、13日だけで過去最高の2,000件近いアクセスを頂きました。全て対応が遅れたのは、父の死があったからに他なりません。どうしても山平和彦に会いたくて岐阜に旅立った中学生の僕は、まさか30年後に山平と親父の葬儀が同じ日になるなんて知る由もありませんでした。山平の岐阜の自宅を探し当てたあの日、山平は僕に発売前のライブ盤をマスターテープで聴かせてくれた。ライブの最後の曲「愛の詩」を聴き終え、僕は山平の家を出た。初めての朝帰りだった。帰り道、生まれて初めて朝日の昇る瞬間に出会った。中学生の僕は、朝日に向かって「愛の詩」を歌った。<もしも朝日に めぐりあえなかったなら…>山平さん、あの時の朝日、僕は一生忘れません。
(文中、敬称略)

とうじ魔とうじ
 2004.10.20

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